12月13日に行われたビデオアクト上映会では、ふたつの作品が上映された。両方とも震災後のたいへんな状況の中で「弱者」に焦点をあてた作品だ。

「動物たちの大震災−生きてきた、150日の日々−」
宍戸大裕さんは、震災直後、自宅を失った人にビデオカメラを片手に話しかけ、答えてもらったとたんに思わずカメラを落としてしまったという。撮っていいのだろうか、話しかけていいのだろうか、という葛藤があったのだろう。
そんな宍戸さんが撮り続けているのが、震災後の動物たちとそれを支える人たちの活動だ。放置されている動物たち、ペットを無くしてしまった人、生き別れてしまったけれども会うことができた人、奮闘する動物愛護の人たち、それぞれを丹念に追いかけている。
印象的だったのは、意外にあっけらかんと震災時の事を話していた人だ。私も2009年に洪水の被害に遭った人たちを数ヶ月後に取材した事があるが、意外にあっけらかんと、むしろ「こんなに凄い事になったんだ」と当時を懐かしむように話してくれる人がいた。人はたいへんな被害に遭っても、それを第三者に話す事で自らの経験を対象化する事ができる。宍戸さんの映像には、そんなふうにあっけらかんと話す人や、そんな人がちょっとだけほろっとする場面も記録されている。
ちょっと思った事がある。動物を救おうとしている人たちや、ペットに久しぶりに会えて喜んでいる人たちは、活き活きと描かれているけれども、そもそも人間がたいへんな時になぜ動物なんだろうという疑問が沸いてくるのだ。上映会に参加した人のアンケートにも同様の意見があった。宍戸さん自身、動物が好きなようなので、違和感は感じないで創っているのだと思う。しかし、動物にそれほど意識が向かわない人にとっては「なんで動物ばっかり助けるんだ」「なんで動物や動物に関わる人だけを撮るんだ」という感覚を持つ人もいるだろう。そうした疑問に対して動物を助けている人たちの答えを聞いたり、あるいは作品を創っている自分自身に問いかける必要があるのではないだろうか。
宍戸さんは、今後も撮影を続けて大きな作品を創り上げようとしているという。ぜひ、多くの人の心に響く作品を期待したい。

『子どもたちを放射能から守れ 福島のたたかい』
湯本雅典さんは、元小学校の教員をしていた。子どもが好きな湯本さんは、原発事故が起きて、なんとかして子どもたちを守りたいと思ったそうだ。
しかし、文部科学省は安全基準の値を上げるなど、子どもたちを守るとは反対の事をしているように思えてならない。以前から社会に訴える映像作品をいくつも創ってきた湯本さんは、震災以降、何度も福島に足を運び、作品を創り続けている。
上映後のトークで、湯本さんは「この問題はまだ終わっていないのに、映画は終わらなきゃならない」と悩みを打ち明けていた。映像作品を創りあげる事以上に、子どもたちを守りたいのだ。
映像作品を創る目的がはっきりしている湯本さんは、必然的に同様の目的、つまり子どもたちを守りたいと思っている親たちの運動にシンパシーを感じ、熱い想いで取材し、作品の中で紹介する。運動に寄り添って創っている映像なために、その運動そのものにそれほど関心がない人やクールに映像を観ようとする人には、メッセージが届きづらいという側面もあると思う。
ふたつの作品の上映後、感想を述べた人のなかには「正しい事を正しいと言っても面白くない」「もっとエンターテイメント性を考えて作ったほうがいい」という意見を言う人もいた。自主制作なのでどんな創り方をしようが自由だが、自分の意図とは相反する意見にも晒されるのが表現活動だ。
この点については湯本さんが自身のブログでも書いている。
http://blog.goo.ne.jp/gakkouwoyamemasu/e/23d889f04f2ea98afe9230a1f20d69fd
湯本さんも福島で取材を続け、作品を創り続けている。
宍戸さんと同様、確信をもった力作を期待している。
報告 小林アツシ